飛鳥夕映えって…

2004年9月17日
「飛鳥夕映え」のこと。
最近、従来のイメージとは違う蘇我入鹿の人物像が言われるようになってきたから
そのイメージの蘇我入鹿なんだろうなと思う。
入鹿をあえて鞍作としたのも狙いはそのあたりにあるのだろう。
舞台でのストーリー上その方がよいんだろうと思うけど
学堂の場面なんてありえない。
そもそも山背大兄皇子がみんなと一緒に勉強してるなんてありえないんだよ。
山背大兄皇子は聖徳太子の息子だけど
蘇我入鹿に滅ぼされた時は50代の半ばぐらいなんだよね。
斑鳩宮で飛鳥の朝廷からは孤立した存在だった。
父である聖徳太子の教えだけが拠り所のような人。
僧旻が日本に戻ってきたのが632年ぐらいだから
山背大兄皇子はすでに40歳を過ぎてる。
そんな人物がわざわざ斑鳩から飛鳥まで新しい学問を勉強しに
出向くとは思えないよ。
軽皇子と蘇我入鹿は僧旻から唐の政治体制なんかを学んだだろうけど
僧旻のところに通ったんではなく自分の館に招いてただろう。
実際、僧旻のところに通って学んだのは身分的にも低い鎌足だけだろう。
僧旻は館を建てて唐から持ち帰った新しい知識を教えたけど
その場所は宮廷の中ではなかったはずだしね。

中大兄皇子の実母妹の間人皇女が軽皇子の妃になったのも
大化の改新の後、軽皇子が孝徳天皇として即位したときのはずだしね。

年齢設定てどうなってるの?と思った。
みんなやたら若いんだもん。
蘇我入鹿、中臣鎌足、軽皇子、山背大兄皇子みんな
同じぐらいの年齢に見えるのよね。
大化の改新があった645年の年齢を考えると
蘇我入鹿で30代半ば
中臣鎌足で30前後
軽皇子が50前ぐらい
皇極天皇で50過ぎ
中大兄皇子が20歳ぐらい
山背大兄皇子は大化の改新より2年前に死んでるんだけど
その時で50代半ばぐらいになってたでしょう。

台詞の中で「大臣」を“おおおみ”と言ったり“だいじん”といったりしてけど
当時は“おおおみ”であって“だいじん”とは言わない。
天皇ともいわない。天皇のことは大王(おおきみ)。
皇極天皇の即位式のところで「すめらみことのきわみと書く」なんて
言ってるけど「すめらみこと」とは天皇の大和読みと言えばいいのかな。
天皇っていう言い方をするようになるのは中大兄皇子が即位してからで
定着してくるのは大海人皇子の即位の後ぐらいだろうしね。
皇極天皇と言うのは漢風諡号で日本書紀が編纂された時に付けられたものだろうし。

とまぁいろいろ「ありえねぇよ」とか「それはちが〜う」と思うこともあったんだけど
作品的にはよかったと思っているのよね。

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